最初にHoly groundの歌詞考察の記事を掲載してから3年が経ちました。
今回の考察は3年前とは真逆の印象を持つ部分もあります。
歌詞考察において私は、考察結果を一つに絞る『正解』を探してはいません。
私の求めるものは、根拠に基づいた考察、ただそれだけです。
人の数だけ歌詞への思いがある。
そのような大らかな気持ちで
私の歌詞考察も拝見していただけると有難いです。
さて、前置きは以上としまして、
今回のHoly groundのテーマといきましょう。
『愛という言葉を使わずに愛を語る』
『好きから愛へすすむ過程の物語』
Holy groundは全体的に暗めの言葉が多いですが、
最後は一筋の光が射しこむポジティブな歌詞だと思います。
前回は、聖地とはどこか?
ということをテーマにしていました。
この3年で聖地の場所について、
一つ思い当たる所がありましたので、後ほど紹介いたします。
今回も前回と同じように、
聖地=愛すること、で考察をみていきます。
Holy groundの歌詞は、なんとなく分かるような・・・
という部類だと思いますので、
今回は愛という言葉を『聖地』に置き換えて
愛を語っていきたいと思います。
”君のいない未来が
ただ大きな闇にみえ
死んでしまえば生きなくていい
そんな事ばかり考えてた
穏やかな月明かりに”
(君のいない未来はただ大きな闇に見えるから死んでしまいたい。月明かりはこんなに穏やかなのに、そんな事ばかり考えていた)
前回はこちらのフレーズをポジティブに捉えていましたが、
今回はネガティブに捉えます。
理由は、前回はフレーズのみしか捉えていなかった。
今回は大きな流れで捉えようと思うからです。
なぜなら、これは、聖地=メッカ巡礼の旅
『好きから愛へすすむ過程の物語』
という流れのある物語だからです。
”体中を充たした こんな強い気持ちに
出会えたからもう何もいらない
欲しがる術 なくしても今
生き延びるの?”
1番のサビに「満ちる」が出てくるのですが、
充ちると満ちるの使い分けがキーポイントです。
愛とは充ちるものではなく、満ちるものと言い換えることができるかと。
充ちる=不足しているものを十分に(いっぱいといえるまで)与えるという意味。
満ちる=それ以上入らないところまでいっぱいにする・いっぱいになるという意味。
(『日本語早わかり』より)
この使い分けからもわかるように、
充ちるとは、まず状態として欠けているんです。
これは文章例をみると分かるように、
欠品が出ないように在庫を充たす。(補充する)
欠員が出ないように充たす。(補充する)
自信に充ちる。
充ちるとは、状態として欠けている所へ
与えられるもの。
”体中を充たした こんな強い気持ちに
出会えたからもう何もいらない”
なので、このフレーズは、
欠けていた体にこんな強い気持ちが充ちて、
もう何もいらない。
こんな強い気持ちを単語にするなら
「好き」といったところでしょうか。
あるいは、「愛だと思うくらい強い気持ち」。
(※愛は傷を負うものだとこの歌詞では解釈します)
そして、以下のように続きます。
”欲しがる術 なくしても今
生き延びるの?”
体中を充たしたこんな強い気持ち
それは与えられるものでしたね。
だから、欲しがる、ということになります。
相手を失い、充たしてもらえない。
今まで相手から与えられていたから。
その術をなくして、今を生き延びる理由なんてある?
という意味になります。
ということで、
愛とは充ちるものではなく、満ちるもの。
このフレーズは歌詞全体の問題提起になるかと思います。
”通り過ぎた幸福な時が
今をただ無意味に変える”
(幸せが仇となる)
”病んだ躰が昨日までの
健康(しあわせ)を喜ぶなんてことしない”
(もうずっと病んでいたい)※↓
ここが少し難しいのですが、まずは病んだ躰から。
躰は、姿、ようす、ありさま、という意味もあるそうです。
なので、ここでの躰は①病んだようす②病んだ身体とします。
”病んだ躰が昨日までの
健康(しあわせ)を喜ぶなんてことしない”
①病んだようす、に対応するのが(しあわせ)
②病んだ身体に対応するのが、健康
②の健康の対義は「病」。
普通は風邪をひいたら、辛くて苦しくて健康を求める。
ああ、昨日までの健康が恋しいと。
でも今は、そんなことを思えない。
もうずっと病んでていい。
だって身体が治ったって、与えてくれる相手はもういないから。
そして、①病んだようす、なぜ病んでしまったかというと、
与えてくれる相手がいないから。
昨日までは与えてくれる相手がいて、しあわせだったけれど、
その相手がもういないわけですから、
昨日(それまで)までのしあわせな時なんて喜べない、ですよね。
”ただ焦がれるように求めてた
日々は するり 蜃気楼の向こうへ”
(砂漠の中をふらふら彷徨いながら、身も心も焦がして、
水を求めるようにあなたを求めた、日々。
そんな日々はするりと、霞の中へ消えていく。
=あなたがいなくなってから、蜃気楼のようにもやもやとした日々しか過ごしていない)
実はこのフレーズが、もっとも聖地の場所を感じる箇所だと思います。
聖地=メッカ巡礼というイメージが私は強く、
巡礼の際は砂漠を歩き続けます。
このフレーズに溢れる砂漠感をもう一度。
”ただ焦がれるように求めてた
日々は するり 蜃気楼の向こうへ”
焦がす(じりじり)、蜃気楼、求める(砂漠で求めるもの=水)
歌詞内には他に、情熱、祈り、というワードがあります。
そうした所から、聖地を「愛すること」と置きながらも、
場所としては、メッカ。なのだと私は思います。
”今日が終われば今日へ
出遭うことない夢をみては
まだ過ごすなら”
※遭うは偶然の意味をふくむ
(もう本当に辛くて会いたくて会いたくて…。
夢でも偶然遭えたらいいのに、遭えない夢ばかりみる。
こんな感じでまだ過ごしていくなら・・・)
”与え続けることでしか
満たされない聖地へ辿り着こう”
(与え続けることでしか満たされない聖地(愛の境地)へ辿り着こう)
愛は、相手がいるから生まれるのではなく、
相手がいないから生まれゆく。
相手がいないことに傷つけられながらも、
その傷を超える程の想いが、
愛、なのだと私は思います。
その境地は、何からも傷つけられない。
それは例え、いない相手に愛しさを想うことでも、
嫌われている相手に愛しさを想うことでも、
傷つけられるものではないと、私は思います。
それはもはや祈りに似た永遠。
それが愛の境地、聖地なのだと思います。
”行き場をなくした情熱は
冷えてゆくよ”
ここでの「情熱」は、1番の強い気持ちとイコールだと思います。
”体中を充たした こんな強い気持ちに
出会えたからもう何もいらない
欲しがる術 なくしても今
生き延びるの?”
先では、こんな強い気持ちを分かりやすく好きとしました。
与えられるものですね。
それは冷めていき、2番では満たされるもの、愛へとつながります。
”行き場をなくしたココロは
いつか目覚めて
揺れ動く波にのって
きっと生まれるよ”
行き場をなくしたココロはいつか目覚める。
ココロは揺れ動く波にのって
きっとそこには、愛が、生まれる。
【以下、2番の補足】
”不確かな気持ちを抱えながら
家路を辿りながら昇華してゆく”
愛を育むとはポジティブな印象がありますが、
このようなネガティブなフレーズも、
愛を育む過程の一つだと私は思います。
”不確かな気持ちを抱えながら
家路を辿りながら昇華してゆく”
(愛に傷つけられながらも(不確かな気持ちを抱えながら)日々は続いていく。そんな帰り道、悩みながら歩いていると、ふと、ある高次元の考えにたどりつく。それは・・・)
”守るべきもの持たないなら
何を祈ろうか”
(守るべきものを持たないなら、何を祈るか。それは・・・)
”世界が優しい光にいつか包まれますように…
なんて偽善者みたいな願い声にして
本当に変わればいい”
ポジティブな言葉(世界が優しい光にいつか・・・)と、
ネガティブな言葉(偽善者)の合わせ技。
気持ちとしてはちょうど白と黒の間で、
優しい気持ちと、それを偽善とする暗い気持ちの間。
しかし、次のフレーズで気持ちはポジティブに傾きます。
”深い傷よりも いつの日にか
愛しい気持ちが残るように”
(深い傷よりも、いつの日にか愛しい気持ちが残る時は、
私は愛しても本当に何からも傷つけられない)
”明日がくればまた明日へ
優しい方へ倒れ込んでゆけるように…”
ここもネガ(倒れ込む)とポジ(優しい方)の合わせ技です。
現状は何も変わっていないけれど、
1番で、死んでしまえば生きなくていい、
と言っていた頃に比べたら、
ポジティブな気持ちが混ざってきている。
”いつかその足で歩いてゆける時がきたら
聖地へ辿り着ける?”
(今はとても歩いていけないけれど、いつかこの足で歩いてゆける時がきたら、聖地(愛する心境)へ辿り着ける?)
”行き場をなくしたココロは
いつか目覚めて
揺れ動く波にのって
きっと生まれるよ”
(行き場をなくしたココロはいつか目覚めて。
ただ焦がれるように求めた先に
きっと愛が生まれる)
揺れ動く波を、蜃気楼として。
蜃気楼の向こうへいってしまった日々は、
ただ焦がれるように求めていた日々。
愛は、有から生まれるのではなく、
愛は、無から生まれる。
そんな境地にいたる3年目のHoly groundでした。